生きることは恥をさらすこと

わたしは片づけや整理整頓がとても苦手です。

理論的にあれこれあるのはわかっています。が、今のわたしにはまだその準備が整っていないようです。

そんな片付いていない部屋を眺めながら、

「今、空き巣が入ったら恥ずかしい」って思うわけです。

「今、死んだら恥ずかしい」って思うわけです。

おくりびとという映画の中で、まさにそんなシーンがありました。

遺品の中にアダルトビデオがある、というね。

生き恥にしろ、死に恥にしろ、結局わたしたちは恥をさらしながら生きているわけです。

もちろん、それを恥と捉えるかどうかは別問題ですが。

恥ずかしいという感情はあまりいいものとして捉えられていません。

恥ずかしいから〇〇しないでおこうという、行動を抑制するエネルギをとして働き、そんな場合の言い訳として使われるものです。

実はこの感情、人間にしか存在しないもので、様々な身体の反応を呈します。

赤面したり、汗をかいたりね。

そんな感情が生まれる背景には、人とのギャップで自分を貶めたり、自分が抱く理想に到達できないという、欠点と呼ばれるものが存在します。

恥という感情に苦しめられているのであれば、それ今いる??を感じてみるといいでしょう。

自分自身で勝手に上げているハードルが見つかれば、そっと撤去してあげるとよいでしょう。

そうすることでいわゆる自分らしいという状態に持っていけるはずです。

そしてもう一つ。

恥ずかしいという感情は欠点、すなわち自分の弱点だと「思っている」わけです。

この弱点という存在は、エネルギーのベクトルを変換すると、長所であり利点であるわけです。

そのせき止められたエネルギーがぱんっと開かれた時に、人は快感を得るわけです。

ある種のフェティシズムに通ずるものがあるわけです。

 

だからね、人生を開きたいのであれば目合いを営むのが手っ取り早いと思うのです。

突然すぎる話の展開なのだけれど。

そしてなぜいきなりこんな話をするのかというのも後々ゆっくりをお伝えをしていきたいのだけれど。

すべてのコミュニケーションは目合いに通じ、目合いによって培われると思うのです。

生きることは恥をさらすことである。

ここを前提として、いかに恥と向き合うかについて考察してみるのも、なかなかおもしろいと思いませんか?