チネイザンで開放の鍵を開ける

初めてチネイザンを受けた翌日、大解放が起こった。

チェンマイ最高位の王室寺院であるワット・プラシンで大泣きして瞑想して、腹と胸の澱みを取ってもらって、付き物が取れたかのように軽くなった。

それ以来、チネイザンの施術を学び、理論を知るにつれ、その素晴らしさと可能性に魅了され続けている。

 
 
ものぐさでめんどくさがりやなわたしにとってチネイザンは一石何鳥にもなる便利な施術だ。

整体と、カウンセリングと、コンサルと、愚痴こぼしと、リラクゼーションと、瞑想と、深い睡眠と、ファスティングを同時にやった感じ。

何より自分の内側から出てくる想いに気づくことができる。

 
 
大きな特徴である心の大解放が起こるプロセスは本当にダイナミックで、そして美しい。

そんな奇跡の瞬間を共有できた先日のセッションもまた、ボディワークの重要性を感じた大切な経験だった。

解放はそれを望めばいつでも、いくらでも起こる。でもその解放にはとてつもないエネルギーを使う。

潜在的に知っている私たちはついついそれを避けてしまうのだけれど、シャンパンのコルクが飛ぶように、巨大な膨張エネルギーを伴って解放が赦される時が来る。

肉体を介して心に働きかけるからこそ起こり得る反応だ。

 
 
それを「出産のようだった」と表現してくださった方もいる。

胎の底に押し込め閉じ込めてしまった負の感情を出したい想いと、出すまいとする思いが拮抗し身体は抵抗を起こす。

全身が痺れ、胸に重石が乗っかり、息もできない状態のまま、泣き、呻き、叫び、震え、硬直させる。

息をしても苦しい、しなくても苦しい。心も身体もやり場がなく、どうしていいのか、どうなるのかもわからない不安の中で、ただただそのプロセスを味わう。

 
 
だからこそ本物の「心の声」が聞こえてくる。

それは思考ではない。

「分かっている」と自覚できるレベルではないところから湧き出てくる、降ってくる心の声。

苦しい、辛い、切ない、悲しい、怒り、怖い、不安。

わたしは苦しかったんだ、辛かったのだと認めることができるから、自分を慰め赦すことができる。

真摯にその瞬間と向き合った後には、「よく頑張ったね」「偉かったね」「このままのわたしで大丈夫」という言葉が降ってくる。

これこそが『感情を味わい尽くす』ということだ。自分を認めるということだ。

頭で分かっていることと、腹が知っていることとは格が違う。 
 
 
 
チネイザンは何かを足す施術ではない。

あくまでも私たちの中にある余分なものを剥がし、解放し、思い通りの人生を阻害する何かを昇華させるものである。

そうすることで見えてくる天命なのか、使命なのか、魂の目的なのか、そんなものが認識されやすくなり、そこに従った人生へとシフトすることができる。

 
 
チネイザンボディサーカーだからという贔屓目を差し引いても、こう言った解放が起こるまでチネイザンを味わうメリットは多大だ。

開放したいという思いにあなたご自身がOKを出すことができれば、自分で生きるということは案外簡単なのだ。

あなたの人生を最も阻害できるのはあなた自身であり、最大限に応援できるのもまた、あなた自身である。

チネイザンがその助けになってくれることを心から願っている。