【 支えるという言葉こそ 】
先日の殿方とドアを開ける開けないのお話にコメントをいただきありがとうございました。
拝見しながらまたあれこれ思いを巡らせていると、あ、こーゆーことか!がまた一つつながりました。
もう随分前のまたまた病院勤務時代のこと。
脚立に乗っかって天井の電球を替えていたら、若干ぐらぐらしていた足元がピタッとハマった瞬間があって。
何かと見てみると、通りかかった医師が脚立を抑えてくださり
「代ってはあげられないんだけどちゃんと支えとくからね。」
と言ってくださいました。
ガタイが…敢えてガタイという表現にしますが、かなり良すぎるし、しかも外科医なので転落でもしたら病院の損失ですもんね。
でもなんかね、この行動がめちゃめちゃ嬉しくて大感動だったんですよね。
きゅんっ♡とすることはなかったのですが(先生ごめんなさい…)、この「支える」という言葉が女子の部分を躊躇なく表現できるキーワードかなと思ってます。
男性性=陽(とする)の行為をありがとう♡と淀みなく受け取れないことがめんどくさいことに……いえ、女子のおっさん化を促す要因の一つです。
でもね、そもそも恐らくこの根底のどこかに甘えられなくなっちゃた原因があるんですよね。
わたし自身の記憶で言うと、ケガして泣くと叱られる、恥ずかしいと言われる、もうやりたくないと言うと甘えるな、ほれ見たことかと責められる、ぼんやりしていると常に手を動かしていなさいと言われる…などなど。
当時は訳もわからず、ただただ拒否され、否定され、蔑ろにされ、恐怖や孤独を感じるしかなく、結果として素直な思い(女性性=陰とする)を表現すると痛い目に遭うという反応が出来上がっちゃってるわけです。
いろんな仕組みがわかってきた今となってはとてもありがたかったことなのだけど、自身の中にあるこの部分に気づかずにいると一生おっさんのままです。
泣くことの何がいけないのか、恥ずかしいことの、物事を放棄することの、妄想にふけることの何がいけないのか。
同じことが起こったとしても今では自分自身で反応を選択することができます。
泣くがいい、喚くがいい、そして大いに怒り、憤慨し、このわたしに何を言うのだと叫んでみればいい。
そしてひとしきり味わった後の自身の感覚に浸った時に出会える魂からの想いに気づき、自身がそっと抱きしめてあげると、必ず陰と陽が穏やかな動きに変わるのです。
多くのメソッドに足りないと感じるのはこの感情を表出させ感じるという部分。
ぜひここを大切にしてほしいのです。
なのになぜそれができないのか。
それは受け止め支えてもらえるという実感がない、あるいは実はちゃんと準備されているのに信頼できていない、ということ。
幼い頃の反応や思いが今はもう必要がないということ、自身で受け止める器が既に手元にあるのだという信頼があれば、なんてことないって思える気がしませんか?
自身の陰を自身の陽が支えるという感覚。
これこそが自信というものにつながるのであり、そうあるからこそ殿方の行為/好意を素直に受け取ることができる、というものなんじゃないのー?って思ったというお話でした。