削ぎ落とす

ここ最近ずっと、自分のルーティーンを見直しながら今の自分に必要で心地よいヒト・モノ・コトは何か?を再考する作業を繰り返している気がする。

すごく特別なモノだと思って挑んだカルサイネイザンの施術は、特別なモノでありながら自然の理に帰依するようなモノであった。

世の中が何か大きな力に引っ張られヒト・モノ・コトが変化していく時には決まって、その真逆に行かねば、その対側でバランスを取っておかねばと感じる。

風の時代に入りいわゆるスピリチュアルという世界への意識が高まる昨今にいて、だから今カルサイネイザンというずっしりと大地に根付くような施術を学んだというコトに大きな意味を感じている。

 
 
いろんな概念が渦巻き個人の主張が尊重される中で最も重要なのは個人の意思に他ならない。

人の概念に乗っ取られた依存的被害者意識から脱し本当の意味での自立を余儀なくされるその時に貫ける意思が明確で強固であるのか、ここは大きな分かれ目になる。

意思を明確にする。ダイヤモンドの原石を磨くようにこびりついた既成概念をヒト・モノ・コトを通して一つひとつ剥がし削ぎ落としていく。

だから原点にある魂の意思が顕現化するのだ。

 
 
わたしはもう十分に手放したと思っていてもきっとそれは一生終わらないゲームみたいなモノで、削げば削ぐほどにもっと削ぐべきモノが見え始める。

他人からのジャッジや言葉でヒトは変わることはできない。あくまでも自分自身の内側から溢れ出てくるモノでなくてはならない。

だからこそ本当にそうなのか?本当にそれがいいのか?について問いがなくなるまで、言葉での表現ができなくなるまで深く深く問い続けねばならない。

答えは自分の内側にのみ存在する。外側からの情報に自分にとっての正解は絶対にない。

ヒト・モノ・コトを通して自分に問いを投げ続けるコトでのみ正解は降りてくる、そこにある違和感としっくり感を大切にするから本当の意味で自由になれるのだ。

 
 
カルサイネイザンはそんな世界へと誘う可能性が大いに存在すると確信している。

その準備ができている人に届けたい。

さて。そろそろ勇気を出して次の世界へ飛び出してみようと改めて思う。