自分なりの表現方法

たまった感情を解放するという過程の中で、表現したがっていた感情と同じだけの身体の反応を使う、という理論があります。

表現を抑制される国では、アーティスティックな表現が発展してきたという記述もあります。

つまりヒトが人間として尊厳を持って生きていくには「ボディワーク」の力が必要だということです。

欧米式の自己啓発のメソッドでは、踊ったり、オーバーアクションしたり、大声を出したり、笑ったり、と言ったものがありますが、私はこれが大嫌いで、逆にストレスが溜まります。

つい先日も、脳の取扱い分野の学び中で、やはりこの作業が出てきて、拒否反応が起きたので質問したところ、あれこれの話の後で、「やりたくないことはやらなくて良い、やれる・やりたい方法でOK」との回答をいただきました。

実は「歌うこと」は私にとってのそう言った表現方法だということに気づいたのは、ボイトレを受け始めたことがきっかけです。

香りで無条件に記憶が甦ってくるのと同じく、それは歌うことでも起こってきます。その歌を共有した人たちとのこと、その時の出来事、心の動き……それが今でもどこかに引っかかっていることも思い出せてくれます。

そんなことも含め、突如、無意味に身体を解放させ大声で叫ばねばならないワークよりも、例え鼻歌であっても、歌に乗せて感情をアウトプットすることの方が、私にはハードルが低いし、単純に愉しい。

何と表現して良いのかわからない感情を、誰かの言葉とメロディーを借りてアウトプットができる。本当に素敵なことだと思います。

実際にボイトレを受けながら、チネイザンと同じく感情解放の方法として共通することって何だろう?と考えるに、それは「波動」なのです。

音・声にも、内臓にも、感情にも、独自の周波数があります。音や声で、あるいは実際に触れるということで、その波に働きかけていく…

その声や音が身体の内側や臓器に響きを生じさせることは、身体に意識を向けさえすれば、すぐに気づくことでもあります。

もっと言えば自然界に存在するすべてのものに、各々の周波数があるのです。

ここを考慮すると、思考だけでは問題解決できないことも、愚痴や攻撃はますます事をこじらせてしまうことも納得ができます。

ボイトレでも、チネイザンでも、「心地が良い状態」がキーワード。

今この瞬間に協和音を響かせることが、しあわせを感じる有効な手段であることは間違いありません。で、より多くの世界と共鳴するには、アウトプットするべし。

ヒトの身体はひとつ。どう使おうか、どう生かそうか。それはいつだって自分自身で選択できることなのです。