ひとのことはわからない

【 ひとのことはわからない 】

とても近しい人がガンと診断され、摘出術をして化学療法をしました。

元々、本当の意味での「氣」がしっかりしている人なのですが、さすがに抗がん剤の副作用は大きく、気力、食欲もなくなってしまっていました。

「医者は患者の気持ちをまったくわかってくれない。医者はみんな一回ガンになってみればいい。この辛さはなった人にしかわからない。」

怒りや絶望のエネルギーがこもったこんな言葉を話してくれました。

冷静に考えると突っ込みどころ満載の言葉たちですが、でもこの言葉、誰の心の中にも日常的に、潜在的に内包しているのではないかと思います。

理解してほしい、認めてほしいなんてことは誰もが抱く思い。

でも心理学やスピの世界にそこそこ陶酔していた頃は、そんな気持ちを抱くことすら罪や未熟さの象徴であったり、欲深い人間だと決めつけていたりしたものです。

さらに理解してほしいという気持ちと、簡単に理解されてたまるか、という気持ちの混在。

なんともめんどくさいものですよね。

そもそも人の気持ちを理解することはできるのでしょうか。

結論から言うと、絶対にできません。

自分を理解することもできないのに、何をもって人を理解できるなんて言えるのでしょうか?

なにさまだよって話です。

ということは、人から理解されることも絶対にありえないわけです。

なのに自分だけは理解してほしい、理解してくれるだろう、理解してくれて当然だという一心で、思い通りに満たされない感情を抱いて苦しんでしまいがちです。

ただ、理解「しよう」とすることは私たちにも簡単にできるのではないでしょうか。

相手の何気ない行動に傷つけ「られた」と感じた時、耳あたりの良くないことを言「われた」と感じた時。

そこに生じた感情を拾い上げ向き合ってあげることはとても大切です。

と同時に、なぜそのような状況になったか、自分だったらどうするのか?に思いを馳せてみると、案外どーでもよくなったりします。

そもそも自分もそんなにできた人間ではないことに気づけたのなら、きっと余分な力は抜けてしまいます。

それでも治まらない時は、されたことと同じことを自分もやってみるという手もあります。

同じ立場になってみるとその気持ちに近づくことができる。そして隠れた自分の欲望にも出会うことができるかもしれません。

そもそも人のことなんて理解できない。だから人から理解されることもない。

かと言って、それは寂しいものでも孤独なのでもなく、そこにある真実を探すための単なる指標だと定義してみる。

そもそもの前提を見直してみることは余分な鎧を一つ脱ぎ捨てる、よいきっかけになると思います。